barca-micos’s blog

脳震盪系社畜 愛猫と2人暮らし

スクールデイズ

知性や教養の高さと差別意識の強さはほぼ反比例の関係にあります。

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僕が通ったマドリードの私立幼稚園は、かなり所得層の高い家庭の子息が通うところでしたが、東洋人に対する物珍しさや好奇心は大いにあったものの、差別的な扱いを受けた記憶は全くありませんでした。

それどころか、カトリックの運営する園は、常に気にかけてくれ、クリスマス会で行う寸劇では、僕がイエスキリストの役柄を演じ、“きよしこの夜”を、スペイン語と日本語の2カ国語で披露しました。父と母が喜んでいたのを朧げに記憶しています。

異文化、異教徒に対しても、その人を尊重する姿勢が幼稚園にも、その園児や保護者にもあったように感じます。

 

自宅は高級住宅街の外れにある、商店街の一角のカフェバーの上階のアパルトメントでしたが、近所に住む商店の子供達は違いました。

あからさまに東洋人である僕を珍しがり、挙句、“chino(中国人)!”と罵倒しました。彼らにとって東洋はほとんどすべてが中国であり、日本の作ったアニメは毎日見ているくせに、日本という国そのものすら知らないのが現実でした。

こうして僕は、5歳くらいでようやく、この世には理不尽な差別感情が存在していて、しかもそれは無教養の産物であることを悟りました。

 

6歳になり、母は僕と妹を連れて日本の実家に帰国しました。僕の就学のためというより、父との不仲の限界によるものと思われます。

 

母の実家がある地方は、紛うことなき田舎だったため、帰国子女である僕はやはり珍しがられました。小学校の並びにある幼稚園に皆同じように通い、隣接する小学校にそのまま入学しているため、顔見知りでないのは僕だけで、しかもスペインからの帰国だと。

皆一様に「誰だお前?」って様子です。

 

マドリードの幼稚園とは違い、教室にいる誰もが同じ東洋人であるにもかかわらず、僕は帰国する前以上の孤独感に支配されました。

 

自分はどこにいても異端だ。

 

日本の小学校における同調圧力の強さは、世界的に見ても相当なものです。

僕はここからずっと、日本の独特に発達してきた文化圏との付き合い方に悪戦苦闘しながら過ごすことになりました。

 

今日はこのへんで。

ガール ミーツ ボーイ

母と父の馴れ初めって普通に興味があるものなのでしょうか。

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もちろんそれが無ければ、自分は存在しないのだから無関係ですってわけにはいかないけれど、父や母から男性女性を感じ取るのって、やはり抵抗感があります。

 

母は父と出会って数日後にはこの人と結婚すると直感したそうです。

父は一見して、多くの人間が認めるところのイケメンでした。身長はそれほど高くはありませんがスマートで、やや日本人離れしたすっきりとした顔つきでした。何より圧倒的な見た目の清潔感を備えていたことが大きかったと思います。僕は幼少期から、父の顔面を持ってすれば多くの女性から愛されるはずだから、父のような顔になりたかったと、下衆ながら考えていました。

 

母も学生時代、同世代やや年下の男から求婚されたことがあることを、少し自慢げに話していたことがあります。「あの時結婚しておけば良かったのかも」とつぶやく母に、自らの生誕の危機を想像していた僕は何も答えられませんでした。

 

一方で、おそらくその何倍も経験を積み重ねてきたであろう父からはその手の色恋話は一切聞いたことがありません。

 

父も母も自称画家でマドリードやパリをふらふらしていた日本人だったわけですから、運命的な出会いだったのかも知れませんが、若気の至りとも言えなくはありません。

いずれにしても、彼らが出会ってくれたからこそ、今の僕が存在するのです。

 

人の出会いは偶然に偶然を重なってのことが多いですが、考えてみると、この世の人間のほぼ全ては偶然の連続によって生まれてきているのかと思うと不思議な気分です。

 

今日はこのへんで。

母は材木商の長女として、裕福な家庭で何一つ不自由のない幼少期を過ごしたといいます。

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ところが、母方の祖父が40歳にして結核で亡くなったことで、状況は一変しました。

何がどのようになれば、祖父の他界によってそれほどまでに生活が変わってしまうのか、今も僕にはよくわかっていないのですが、とにかく実家の材木商は人手に渡り、母方の祖母は小学校教師生活から悠々自適の奥様生活を送っていたにもかかわらず、突然身一つで母とまだ幼かった弟を育て上げる状況に陥ったようです。転職先が保険会社であったことは、今思えば何となく皮肉にも感じられます。

 

祖母は優秀な人でした。保険会社に勤め始めると、たちまち一般的なサラリーマン以上の稼ぎを成し、アパート暮らしから一軒家を購入して移り住み、やがて母や叔父を難なく大学まで送り出す余裕までありました。

また、祖母は比較的美人でした。未亡人となったのちも多くの男性に言い寄られ、母は家に訪れる男性の影に、徐々に本来の明るさを失っていったといいます。祖父をなくした当時の母はまだ中学生でした。それまで祖父のことが好きであればあったほど、苦悩も大きかったに違いありません。そして母は絵を描くことで唯一、現実と向かい合うことができたのかもしれません。

 

 僕に多くのこの世の理を教えてくれたのは、この母でした。美しきものと醜いもの。貧富や差別。善悪と善悪のつかないもの。利害の不一致。不条理や矛盾。僕の中に形成されてきたそのほとんどの価値観の礎は母から受け継いできたものです。

 

そして僕が成長して家を出る頃には、母が持つ理念にも大きく反発することになりました。

 

今日はこのへんで。

父と過ごした期間は、実際のところはトータルで10年に足りません。

幼少期の6年間と、小学校に上がったのち、中学生となるまでの3年間ほどです。

 

父はとある地方都市にて6男として生まれました。長兄ともずいぶん歳も離れていたでしょうし、おそらくはあまりかまわれずに育ったのだと思います。コミュニケーション能力は乏しく、今ひとつ何を考えているのかわからない怖さが常にありました。

父方の祖父は父が高校生くらいの頃に他界し、家庭も裕福ではなく、学業も乏しかった父は、定時制の高校を卒業しました。

一方で、父は子供時代から、比較的優れた画力を持っていたようです。どこでどう興味を持ち、その才能を切り拓いたのかは知るところではありませんが、高校に上がる頃には目を見張るほどのデッサン力を持っていました。その画力は僕にもある程度受け継がれています。

その後、東京藝術大学を志したそうですが、地方都市出身の、ただ絵が上手いだけの青年に対して、現実はそう甘くはありませんでした。

 

その後の父の10年弱の生活ぶりは大いに謎です。何かしらの職に就いていたのかもわかりませんし、東京にいたのかどこにいたのかのかすらわかりません。本人から聞いたこともありません。

 

とにかく父は、母と出会う直前には、マドリードの娼館に転がり込んでいたとのことです。

 

母は僕に対して小言を発するときよく、父とそっくりだと言いました。悔し紛れに言い放つ言葉なので、きっと褒め言葉ではなくて悪口なのでしょう。

たしかに僕の顔はどちらかといえば父似。歩き方もそっくり。字体も父寄り。女の子にモテたのもきっと父の血を引いたからなのでしょう。

 

抗えない事実として、僕は、そんな父の血を比較的濃く受け継いでいるのです。

 

今日はこのへんで。

生い立ち

ルーツは人格形成上、とても大切な要素です。

誰から生まれて、どのように育ったか。

 

マドリードに生まれ、幼少期を「周りとは違う自分」として育ったのは、僕の性格を形作った大きな要素の1つでしょう。

 

周辺は地元の有力者が暮らすいわゆる高級住宅街で、とても落ち着いた郊外の街並みでした。

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ちょうどこんな感じでしょうか。

 

そんな中、育ちのいい御子息が通う私立幼稚園に1人東洋人代表として、なぜか僕は無償で通うことができていました。

父と母は名も無き洋画家でした。もちろんお金持ちであるどころか、酒場の上階にあるアバルトメントでの極貧生活に近い暮らしぶりでした。

僕は当地では待遇の良かった“芸術家の御子息”として、運転手が送り迎えするような貴族階級のおぼっちゃまお嬢ちゃま達が通う幼稚園に通わされていたのです。

 

幼稚園では、利発だけど人見知りの激しい、何を考えているのかわかりにくい神秘の東洋人の子。と見られていたような気がします。

僕の家族は、目立った日本人コミュニティもない中で異邦人として慎ましく暮らしていました。

 

幼少期の僕は、このような環境の中、圧倒的な孤独感と、少々の劣等感とで、どちらかというと内向的な性格に形つくられたのかもしれません。

 

今日はこのへんで。

母のLINEとChromebook

日記は苦手です。

 

幼い頃から、続いた試しがありません。

継続することの素晴らしさ。綿々と受け継がれてきたものへの憧れなどはよくわかっていたつもりでしたが、日記はどうしても続かないのです。

 

新しいもの好きで、飽き性なんですよ僕。

 

けれども、どうしても伝えたいことがあって、でもおそらくは伝わらないのかもしれないなとも思いつつ、それでもいつか届けばいいかなくらいの気持ちで、日々の思いを綴っていこうと決心しました。

 

実は背景は重たいのですが、軽い気持ちで始めたいと思います。

 

とりあえずブログを始めるきっかけでも書いておきます。

 

小さなきっかけが2つほど。

1つが、母の誕生日で、もう1つが、Chromebookの購入です。

 

ほんとに小さなきっかけ。

 

2月になって、仕事が超繁忙期を迎える中、母の誕生日であることをLINEで知らされました。1週間ほど前まで覚えていたのに、超忙しくなるといつの間にか迎えてしまう母の誕生日。本当に、いつも情けない息子で申し訳ないです。

 

母はLINEの中で、地元ではコロナでなくなる高齢者がちらほらいる中、自分は無事でいることと、僕に文章を書くことを勧めてくれました。これが1つめのきっかけです。

 

もう1つのきっかけはこいつです。

 

 

今どき珍しい無骨なタイプ。

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この重苦しい見た目と堅牢性。

素晴らしい。

 

衝動的にAmazonをポチる指。

 

表紙の美しい日記帳に出会ったときのようなわくわく感もあって、このChromebookで日記をしたためてやろうと思ったのでした。

 

そうです。僕は形から入るタイプなんです。

だから行動がいつも遅くなります。

 

形より行動。理屈より行動。

 

これ何やるにしても一番大事なんですけどね。

 

今日はこのへんで。